川村 知子
Tomoko Kawamura
森をツナグ 代表
身体の声を聴くエネルギーワーカー/整体師
「両親は昭和の頑固親父と教育ママ。仏壇屋の長女として育つ。」
1976年、三重県の桑名市に、仏壇屋の3人兄弟の長女として生まれました。2才年下の弟とはよく喧嘩して、お母さんに泣きながら仲介を求めていました。小学校5年の時、11才年下の弟が生まれました。本当に可愛くて、よく面倒をみていました。
小学校の時はそろばん、習字、ピアノ、水泳、塾、手芸、時には歌や英語。たっっくさん!!習い事をしていました。両親ともに仕事で忙しかったので、寂しかったのだと思います。わたしは優等生になることで自分の居場所を確保していました。中学と高校は吹奏楽部でフルート。英語が好きで、将来の夢は英語の先生になることでした。両親への反発心が強く、大学は絶対に東京に行くと決めていました。
「東南アジアの魅力に気づき、国際協力の道へ!」
母親の実家が鎌倉だったので、祖母の家から通う条件で、東京の大学に入学しました。英語が好きだったので、文学部の英文学科。大学は大好きだったのですが、英文学の授業に興味が持てず、2年生の時に帰国子女が多く通う都内の大学に編入しました。東南アジアが大好きになり、大学の時はバックパッカー。長い休みになると東南アジアを旅していました。大学卒業後、国際協力の仕事に携わりたい!と、東南アジアのITを推進する財団法人で、国際協力の分野に11年間携わりました。国際会議の運営や国のプロジェクトの事務局、各国のIT分野の調査など、2ヶ月に1回のペースで東南アジアへの出張。色々な葛藤がありつつ、とっても楽しかった!たくさんの経験をさせてもらいました。その後、32才の時に電機電子の業界団体に転職し、東南アジアの省エネプロジェクトや総合企画・広報に7年間従事します。
「7年付き合った彼と幸せな結婚!のはずが...」
30代。30才の頃、7年間付き合っていた彼と幸せな結婚♡のはずが、結婚式の10日前に延期になりました。人生最初の大きな挫折でした。父親同士がバチバチ対立し、私たちが乗り越えられなかったためです。来る日も来る日も辛くて、泣いても泣いても涙が枯れず、虫歯でもないのに夜中に歯が痛くなって起きる。食べられなくて、どんどん痩せていく。朝まで寝られず朦朧した頭で会社に行き、いつ電車に飛び込もうかと何度思ったことか。この頃は人生で最大の暗黒期でした。この時、結婚式と、仕事のピークと、社会人大学院の入試が重なりました。私ならできると思ったけど、大学院の合格以外は大失敗でした。
31才。結婚式の延期でボロボロになりながら、社会人大学院に通い経営学を学びます。会議の運営や事務局ではなく「専門家」になりたかったためです。大学院に行くことは憧れでもありました。当時、東南アジアではIT分野のジョブホッピング(転職)が多く、日系企業が頭を悩ませていたこともあり、それをテーマに修士論文を書きました。仕事と大学院の両立はとても大変でしたが、なんとか卒業。本当は博士課程に進んで、大学の先生になりたかったのですが、東南アジア×IT×教育の分野では、これ以上能力的に論文が書けないとさとり、専門家になる道を泣く泣くあきらめます。
結婚が延期になった彼とは、1年後に別れました。本当に辛かった。私の人生は終わったと思いました。涙でぐしゃぐしゃになりながらも、でも、私は「誰かと人生を積み重ねていきたい」と自分の本心に向き合い、今の旦那さんと出会うことになります。2年後、大学院の論文を提出してから結婚しました。
「自分の心から表現できる"何か"が欲しかった。」
専門家の道をあきらめて、自分の道をどうしようかとずっと悩んでいました。国際協力は大好きだったけれど、ITがどうしても自分の言葉で表現できなかった。自分の心から表現できる何かが欲しかったのです。ガチガチの肩こりだった私は、そうだ!自分の肩こりを解消しながら技術も身につければ、人にも施術できる。身体が辛い気持ちはよくわかるから、整体だったら自分の言葉で表現できると、井本整体で整体を学びはじめます。3年ほど勉強した時、いくら身体がよくなっても、心配事や心が不安だとまたすぐに身体も悪くなる。身体だけでなく心のあり方こそが大切と気づきコーチング(マインドフルネスNLP)も同時に学びはじめます。30代は仕事、結婚、不妊治療(福岡にきてからも)、母親とのこと、父親とのこと、徹底的に自分に向き合う10年となりました。自分のルーツと徹底的に向き合ってきた10年が、いま森をツナグで提供している「ルーツを辿るセッション」にも繋がっています。
